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歐陽脩

欧陽 修(おうよう しゅう、Ouyang Xiu 1007年 - 1072年)は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。

吉州廬陵(現在の江西省吉安県)の比較的貧しい家庭に生まれ、四歳で父を失う。正規の教育によらず自学自習で、1030年(天聖8年)進士に及第。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。以後改革派の范仲淹を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。

約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、仁宗の不興を買い、1045年(慶暦5年)には誹謗されて滁州(安徽省)の知事に再び左遷された。

数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。王安石の新法を早くから支持していたが、実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、最も強力な反対派の1人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の1072年(熙寧5年)、隠棲先である潁州(安徽省)にて没した。

散文においては韓愈の例に倣い、いわゆる古文復興運動をすすめた。滁州の自然や人々の生活を描写した「醉翁亭記」は、有名な作品のひとつであり、中国の紀行文の最高水準のひとつとして賞賛される。

主な作品に《新唐書》、《新五代史》、《毛詩本義》、《集古錄》、《歸田錄》、《洛陽牡丹記》、《試筆》、《居士集》、《六一詩話》、《六一詞》、《易童子問》。その一連の作品は、周必大により『欧陽文忠公全集』にまとめられている。
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